約束の聖霊による証印

説教:山口 契 伝道師

聖書:エペソ人への手紙1:314v13,14

 

中心聖句:

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(v14

 

  1.  はじめに 

 この季節になると、入学式やキャンパス内でのサークル勧誘のビラ配りを思い出します。右も左も分からない新入生たちに、これでもかとそれぞれのサークルのアピールをし、チラシを渡して行きます。一枚一枚をしっかりと受け取ってくれる新入生たちもいれば、もういっさい手を出さずに通り過ぎて行く学生もいる。それこそ山盛りのチラシを抱えることになっていました。私の大学時代の先輩もそのように山ほどのチラシの中から聖書研究会のチラシを見つけ、聖書に興味があるという理由で、聖書研究会に入ったそうです。彼はただ興味があったということではなく、そのキリスト教の経典とされる聖書を論駁しようと思っていたという話を後ほどお聞きしました。しかしそんな先輩も聖書研究会や教会の交わりの中で導かれ、洗礼を受けられたのでした。一枚のビラを用いてくださり、御言葉へと向き合わせ、信仰告白を与えられる。神様のなさることはなんてすごいのだろうと思わされた、とても印象深い出来事です。いやその先輩だけではなく、私たちはそれぞれとても不思議な導きの中で主を信じ、今この場での礼拝を共にしているのではないでしょうか。それこそ、家のポストに入っていた教会のチラシを見て、主を信じた方がいます。家族に連れられて幼い頃から教会学校に来ていた方がいます。職場の同僚に導かれた方もいるでしょう。一人ひとりが主の取り扱いを受けて、主の救いに与っているのです。

 

 本日のみことばの言葉を借りるならば、世界の基の置かれる前から、時が満ちすべてのものが一つにされるその完成へと至る壮大な神様の救いのみわざの中で、私たちもまたそれぞれに取り扱われている。歴史の大きな計画の中で、一人ひとりがさまざまな導きを受けている。私たちの救いとは、そのようなものなのです。今朝は13,14節を中心に、これまで見てきました314節のパウロの大頌栄、神をほめたたえる大讃美を読んでいきます。今までに見てきましたように、この314節は長い一文であります。3節「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」から始まるこの一文は、私たちに注がれているそのすべての霊的祝福を説明する形で進められてきました。その祝福こそが私たちの救いなのです。改めてここに書かれていた祝福、私たちの救いのそのひとつひとつを見ることはしませんけれども、この救いの歴史の中に置かれている私たちであることを覚え、神の栄光をほめたたえるパウロの賛美に心をあわせたいと願います。そしてその救いの歴史の中で、現在の私たちに与えられている聖霊の恵み、私たちの救いが本物であることの確信を今朝、もう一度教えられたいと願います。

 

.「あなたがたもまた」 ユダヤ人から異邦人へ、広がる恵み(v13a) 

 本日の箇所をもう一度お読みします。v13この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印が押されました。まずここで、「あなたがたもまた」と言われていることに注目したいと思います。パウロはこれまで、自分を含めた「私たち」という表現で、神の救いの業を言い表してきました。直前の12節をお読みします。前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。前からキリストに望みを置いていた「私たち」。これはユダヤ人クリスチャンを表わしていたのです。この手紙を読んでいるエペソに住む異邦人とは違う、神の選びの民です。今日の私たちが読むと、なぜパウロはこのような区別をしているのかと首をひねってしまいます。しかし当時の教会にとってこれは切実な問題でした。ユダヤ人であるか異邦人であるかは、教会の分裂を引き起こすほどの大きな違いだったのです。続く2章では、あなたがたはキリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。以前は遠くはなれていた」と言い表しています。ひとつの家に住み、ひとつの食卓で食事を共にすることなど考えられない者、それが異邦人だったのです。かつてそのような明確な違いがあったことを、パウロは否定していません。事実、ユダヤ人は選ばれた民として、わたしのもの、わたしの宝と呼ばれ、神から特別の愛を受けていたのです。当然、神の救いの御業もこの民を中心に考えられていたのでした。しかしパウロはそれで終わらないことをも知っていました。前からキリストに望みを置いていた「私たち」に続けて、「あなたがたもまた」、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印が押されました!と声高らかに歌っているのです。「証印」というものは、手紙や荷物を運ぶ際、それがだれのものであるのかを示し、中身が他で開封されることなくしっかりと守られていることを保証するための印でありました。すなわち、異邦人でありかつては神から遠くはなれていたあなたがたもまた、今では神のものであるという印が押されているのだとパウロは言うのでありました。「神印」と言いましょうか。そのようなマークが、福音を聞き、信じるすべてのものにつけられているのです。

 

 鍵となるのは、この方にあって、と言われる「この方」。すなわち、イエスキリストです。そして、聞き、信じる内容として提示されている真理のことば、救いの福音です。パウロはコリントの教会に宛てて、この福音がどのようなものであるかを明確に宣べ伝えています。1コリ15:15兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。要約するならば、パウロ自身が受け、そしてエペソの教会が聞き信じた福音とは、イエスキリストの十字架の死と復活です。ある神学者はこれをイエスキリスト自身であるとさえ教えています。

 

 イエスキリストの流された血、裂かれた肉は、選ばれた種族であるユダヤ人のためだけでなく、異邦人であるあなたがたのためでもあったのだ、あなたがたもそれによって罪赦され、贖われ、神の所有財産とされているのだ。そのように言われているのが、このエペソ書1:13、本日の箇所です。最初にも確認しましたように、今朝与えられているみことばは、すべての霊的祝福をもっての祝福のひとつであり、神の救いの御業の一部であります。私たちは前回までにこの救いのみ業が、世界の基の置かれる前からの計画であり、そして時が満ちたとき、すべてのものがキリストにあってひとつとされるということを見ました。永遠から永遠への救いの業です。それは単に時間的な広がりだけでなく、種族を越えてもたらされる、実に壮大な救いであるということが分かるのです。イエスキリストにあって、その真理のことば、救いの福音を聞き、信じることによって、神のものとされる。もちろん私たちもまた、ユダヤ人ではない異邦人です。神の救いから遠くにいたものでありました。しかしそんな私たちにも、救いの福音が届けられ、信仰が与えられ、それゆえに神のものとされている。先輩が一枚のチラシを通して主の前に導かれたように、家族や友人、同僚、一枚のトラクトを通して教会に足を運び、福音を聞いたように、神の救いは広げられていくのです。本日の箇所でパウロが述べているこの異邦人へと広げられた救いは、私たちと関係のないところの話ではなく、私たちをも巻き込む救いの業であるのです。

 

3.   聖霊の証印、婚約指輪としての保証(v13b,14a) 

 さて、そのようにして私たち異邦人にももたらされた救いです。パウロは続く14節では、イエスキリストにあって真理のことば、救いの福音を聞き信じたすべての者を含めて「私たち」と呼び、ことばを続けます。14節の前半、聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。ここで保証という言葉が登場します。聖霊は保証である。先ほどの証印と似た印象を受ける言葉ですが、少し調べるうちに、今を生きる私たちにとって極めて重要であり、力強い励ましを持つ言葉であることが分かってきました。神の計画が過去、すなわち世界の基の置かれる前から始まり、未来、すなわち時が満ちて完成することを教えるこの宇宙代の広がりを持つ箇所の中で、現在の私たち信仰者の歩みに深く関わるのがこの聖霊によって明らかにされる「保証」であると言えるのです。言い換えるならば、これまで述べられてきました私たちの救い、それは誤報や勘違いなどではなく、確かなものである、確実に与えられると約束しているのが、この「保証」と言われる「聖霊」なのです。救いの確信、私たちは確かに救われていると声高らかに宣言できるのは、この聖霊によると、パウロは教えているのであります。

 

 保証と訳されている言葉は、「手付け金」や「担保」と訳される言葉であり、やがてその全体が与えられるものの一部を、約束として与えるものであります。約束の確かさを表わす上で極めて重要なものとして捉えられるべきことばです。やがて与えられるものの確かさを、まさしく「保証」するためのものが、ここでは「聖霊」であると言われているのです。興味深いのは、このギリシャ語が今日では「婚約指輪」の意味で用いられているということです。結婚を約束した男女が、ひとつになるその日まで、さまざまなものを確認し合い、あるいは外への証しとして、公の事実として過ごすのがこの婚約です。この約束が、確かな約束が与えられているのが、「イエスは私の主である」と告白し、救いを受けた私たちなのです。

 

 では、そのような「保証」としての聖霊は、現実的にどのように私たちに確信を与えて下さるのでしょうか。どのように、私たちはその婚約指輪としての聖霊が与えられていること、今日も共にいてくださることを知るのでしょうか。それは私たちの信仰生活に関わる問題です。聖霊によらなければ、誰もイエスを主と言うことはできない(1Cr12:3)。この信仰告白が、私たちに与えられている何よりの保証であるのです。いつも主を見上げる生き方、主を讃美する生き方です。

 

 これらの聖霊による保証はかつての日、私たちが洗礼を決心し、水のバプテスマを受けたその日だけの出来事ではない。今でも終末に向けて、キリストにあってひとつとされ、御国を受け継ぐことになるその時までを生きる私たちの手には婚約指輪がはめられる。やがての日、キリストの花嫁として整えられるその日まで、私たちは聖霊と言う保証が与えられているのです。

 

このことを考えるとき、何よりもまず今私たちがここに集い、神様に礼拝をささげているということが、私たちに聖霊が与えられていることの何よりの証拠ではないでしょうか。それぞれに忙しい日常の中、ある人は仕事につかれ、学びにつかれ、人間関係につかれ、病に弱り、信仰の試みを受け、悲しみに打ち拉がれている方もいるでしょう。しかし、それでも礼拝を守る。神を神とする。主に助けを求め、祈る。これは人間の思いからは決して生まれ出て来るものではありません。私たちのうちに生きて働かれるお方の力でなくて、何なのでしょうか。

 

 多くの人々はこの聖霊の印として目に見えるものを求めます。しかし、私たちは何よりもまず、神がそういわれているから、聖書がそう伝えているから、それを信じると力強く告白していきたいと願います。その上で、私たちの歩みを振り返るとき、そこにいつも働き、私たちの手を引いて導いてくださる神様の愛の業を覚えたいと願います。天地を造られ、連綿と続く歴史のすべてを支配しておられるお方が、わたしたちひとりひとりに目を止めてくださり、救いを与え、祝福を注いでくださる。

 

4.   救われた者の賛歌、救われた者たちの賛歌 

 パウロは、このv3-14の長い一文を、再び讃美の言葉で閉じます。14節後半、これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。保証としての聖霊が私たちに与えられているのは、神の民の贖いのため、そして神の栄光がほめたたえられるためなのです。ここで神の民と書かれているのは意訳であり、神の所有と訳すのが直訳での表現です。直前の聖霊によって証印を押されているもの、神のものとしての印をつけられたもの、イエスキリストの十字架と復活の良い知らせを聞き、そして信じたすべての信仰者のことです。その贖いはv7で言われているものではなく、やがての日、すべての者がキリストにあってひとつにされるといわれるその日のことです。ある日本語訳聖書では、完全という言葉を補い、完全な贖いとして伝えます。もはや死も苦しみも私たちを脅かすことのない、完全な贖い、完全に神の民とされる。そのために、約束の聖霊は与えられ、婚約指輪という確かな救いの確信が私たちには与えられているのです。そして、それは讃美へと変えられる。ある説教者は言います。「このエペソ書1:3-14の頌栄は、おそらくパウロがあらかじめ用意して、思いを練り、辞を整え、順をたてて作り上げたものではなく、彼のうちにあふれあふれていた感謝と信仰とが、あふれあふれて出来上がったものであろう。すなわち三十年にわたる信仰と戦いと伝道の上に立ち、はるかに天国を仰ぎつつ彼がささげた頌栄である。これが大頌栄と呼ばれるほどの無比の頌栄となったのも決して理由のないことではない」パウロは自分に与えられている救いの広さ、深さを覚えるとき、讃美せずにはいられなかったのです。決して自明の、当たり前のことではない恵みとして、この救いを捉えていた。与えられている婚約指輪としての聖霊の働きを見るとき、喜びと感謝が溢れ出ているのでした。

 

5.   まとめ 

 冒頭でお話しさせていただきました一枚のサークル紹介のチラシから救いへと導かれた先輩。彼はキリスト者学生会の卒業式の中で、次のようなことばを後輩である私たちに残してくださいました。「たった一枚のちらしをも神様は用いてくださり、救いへと導かれる。」かつてキリスト教を論駁しようとしたひとりの学生は、主の救いの業を自分自身の中に見た時に、そのように力強く証ししたのでした。たった一枚のチラシをもって御自身のもとへと引き寄せられた神様がおられる。その身を十字架につけるほどに、罪人である私たちを愛してくださったイエス様がおられる。そして、婚約指輪として私たちに救いを保証し、いつもともにいて助けてくださる聖霊が、今日も先輩をはじめ主のものとしての証印を押された私たちを導き、やがての日の完成へと連れて行ってくださる。この三位一体の神様が私たちを救いまで導いてくださることを信じ、期待し、祈りつつ、私たちの救いの主に栄光をお返ししていきましょう。