復活の希望に生きる

川口昌英 牧師

聖書個所 第一コリント1550~58

中心聖句 私の愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから。                           

                              第一コリント1558

説教の構成

◆()聖書の伝える復活

 主の生涯を伝える福音書の中にラザロや(ヨハネ1130~46)、会堂司ヤイロの娘が生き返ったこと(マルコ535~43)が記され、それを見た人々が非常に驚いたとあります。特にラザロの場合は、死後四日も経っていましたから、人々は主イエスに不思議な力を感じ、多くのユダヤ人たちが主を信じたとあります。(ヨハネ1145)

   このように一旦死んだ者が生き返ることは人知を超えた出来事であり、人々に脅威と感動を呼び起こしましたが、主イエスの復活はそれとは違うことを知る必要があります。イースターの度ごとに話していますが、聖書の復活を理解するために大切ですから今年もお話しますと、ラザロの場合も復活と言われていますが、厳密に言うと主イエスの復活、又再臨の時、信ずる者に約束されている復活とは全く性質が違うのです。

 ラザロの場合は、時が来たなら再び死んでいるのです。しかし、主の復活、又信ずる者に約束されている復活は、罪と死に対して勝利が実現した「天上の体」「朽ちないからだ」「栄光あるもの」「強いもの」「御霊のからだ」「天から出たもの」「天上のかたち」です。(第一コリント15) 確かに主の場合、人の罪のために十字架の死を受けたことを示す傷跡が残っていましたが、その本質は死を超えた栄光のからだであったのです。聖書の言う復活は、案外多くの人が誤解していますが、再び生き返ること、蘇生とは全く違うのです。復活がどれほどクリスチャンにとって大切なものであるかを知るためには、まず聖書が伝える復活の意味を知る必要があります。

 

◆(本論)復活を信ずる根拠

このように信仰にとって本当に重要な主の復活、又復活の約束ですが (第一コリント1514~19)、その復活そのもの、そしてそれにより救いが成就し、罪の赦しと死に対する勝利が実現したことを否定する者たちがいます。(第一コリント1512) 律法を信仰の中心に置き、主を死刑にするために行動したユダヤ人たちであり、又どの時代にもいる人間中心主義の人たちです。

 彼らは頑に否定します。自分たちの教えと違っているからです。そのため、主の復活についても認めず、さまざまな理由をあげて否定します。実はキリストは死んでいなかった、気絶していただけである、そして回復した主を弟子たちが救い出し、主は復活したと偽っているのだというのです。しかし、冷静に考えますと何度も鞭で打たれ、手と足に直接太い釘を打込まれ、長時間に渡って十字架につけられ、肉が裂かれ、大量の血が流され、最後には脇腹を槍で刺され、死を確認され、墓に納められた人がたとい気絶から意識が回復したとしても、三日間何も栄養をとらないで重い後遺症もなしで生きることができるでしょうか。又墓の前は特別に警戒されて厳重な兵の監視がつけられていたのです。(マタイ2762~65) そのような中から主を救いだせるでしょうか。更にそれが偶然可能であったとしても、そんな瀕死の状態から回復した方がすぐにあちらこちらに元気な姿をもって現れること(第一コリント155~7) が出来るでしょうか。

 そして何よりもこのように考えることの一番の問題は、弟子たちが主の死と復活について偽りを言っているということです。弟子たちは自分たちが造りだした偽り、願望のために命を賭けていると言うのです。しかし、いくら主イエスを慕い、その教えや行動を大切に思ったとしても、自らの偽りのために命を賭けるでしょうか。そのため自ら危険をおかし、又他の人を偽りの人生に導き、根拠のない人生を送らせようとするでしょうか。

自ら偽っていたなら厳しい迫害の中で主の死と復活を伝える力と喜びを持てなかったはずです。又互いに偽っていたなら後で必ず、それは噓だったという者が現れるのです。

 復活を否定する人たちは更に他の理由を言います。主の復活を弟子たちは力を込めて語り、罪よりの救いが完了、成就したと言っているけれども、イエスの遺体はイスラエルの当局やローマの責任者が隠したのだ、だから復活は事実でないと。しかし、これこそ不思議な説明です。そもそも何のためにイスラエル当局や実質支配をしているローマの責任者がそうする必要があるのでしょうか。そしてその通りであったなら、弟子たちが復活を声を大にして伝えていることに対し、事実は違う、ここにイエスの遺体があるとひとこと言うならば、福音宣教に対して決定的な打撃を加えることができたのです。しかし、彼らがそのようにしたという形跡は全くありません。彼らは主の復活を伝える者たちをただ脅して言わせないようにしただけです。こうして見ると、主の復活を否定するもっともらしい説明には却って無理があることが分かります。

反対に主イエスが栄光のからだとして死より甦り、罪と死に対する勝利が実現したことを真実とする理由です。先に少し触れましたが、まず十字架の直後、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちが大いに変化し、力強く主の福音を伝えたことです。使徒の働き2章、3章のペテロの説教や4章の捕捉された議会における証しなどから知ることができます。 確かに、約束の聖霊が与えられて(使徒の働き2)強くなり、大胆になっていますが、その根底には当然、復活の主と会い、復活が実現したことを知ったことがあるのです。

 さらに主の復活は事実であると信ずることが出来る理由は、パウロのような人物の回心です。使徒の働きに出ているパウロに関する記事や又新約聖書に多く収められているパウロの書簡を見ると、パウロは確かに熱い心を持っていますが、決して大勢の流れに影響される人間ではありません。真実を冷静に、広い視野から、脇に逸れることなく追い求めていた人物です。そして自分の信じていることに従って大胆率直に行動する人物です。人に影響されず、ただ神の御前に御心のみを求めていたのです。そのように自分が真実として受けとめる神の御心以外によって決して動かされることがないパウロが特別に現れてくださった復活の主と会った時から(使徒の働き9)、生き方が全く変わったのです。今まで先頭に立って教会を破壊し、クリスチャンたちをいためつけていましたが、復活の主とお会いしてからは逆に先頭に立って、力強く語り、反対に攻撃、迫害を受けるようになっているのです。主イエスの復活が事実であり、それが意味する長年追い求めてやまなかった救いが完成、成就したことを知ったからです。使徒の働き26章において、カイザリヤで獄に入れられていた時、自分に関心を持って会いに来たユダヤの一地方を治めていたアグリッパ王に対し、自分の証しをしていますが、復活の主とお会いしたことが自分の転機であったと力を込めて語っています。(使徒26)

 

◆(終わりに)復活はキリスト教信仰の要

 主イエスの復活は敗北に思えた十字架の死こそ、神が人に与えられた恵みであり、人を罪と死の支配から贖うためであったことを明らかにしました。

   聖書本文を見て来ませんでしたが、このところは主の復活は事実ですから、人は死や終末に対して希望を持つことが出来る、それゆえこの復活の希望に堅く立って動かされることなく、今置かれている場で主のわざをしようと勧められているところです。復活は、一部現代神学者たちが言うように「特別の状況の中で真実として受けとめることができるもの」ではありません。実際の出来事であり、キリスト教信仰の要です。一旦死んだ者が生き返ることは驚くべきことですが、主が初穂となられた復活、終末再臨の時に約束されている復活は、はるかにすばらしいものです。復活の希望を持って生きることは、最後の敵である死に対しても平安な思いを与えます。主イエスの十字架の死と復活は、私たちの人生を根本から変える神の恵みであり、賜物なのです。