十字架直前の主

川口昌英 牧師

聖書個所 ルカの福音書2333~38節   

中心聖句 

その時、イエスはこう言われた。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」

ルカの福音書 2334a

 

説教の構成

◆()十字架直前の一日に注目する理由

 教会の記念日を定めています教会暦によると、今年は本日が受難週の始まり、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入られた棕櫚の聖日であり、金曜日が十字架におかかりになった受難日です。そして次の日曜日が十字架の死より甦られた復活記念日です。

 今年の受難週礼拝においては、十字架直前の一日に絞って、どのような出来事が起こり、そしてその中心には何があったのかを共に考えたいと願います。

 言うまでもなく、神の御子である主が人の罪を贖うために犠牲になることは、旧約時代から預言されていたことであり(イザヤ53章、詩篇22篇等) 、人としてこの地上にお生まれになってからではありません。従って、直前の一日の出来事を追跡することに意味があるのかと思われる方がいるかも知れませんが、私はこの直前の一日に、十字架に対する主の御心が特に現れていると考えます。それゆえ、この一日の出来事を追跡することによって、主イエスが十字架をどのように受けとめておられたかをより深く知ることができると考えます。本日は、この日のことについて最も詳しく記していますヨハネの福音書記事を中心としながら福音書全体を見て行きます。

◆(本論) 直前の一日の出来事

ヨハネは十字架直前の一日について弟子たちとの夕食の場面から記しています。「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られた」(ヨハネ131) とありますが、主はこの世の支配者たちがご自分を葬り去ろうとしていることを受けとめられたのです。

 このように地上での最後の時が来た中で、ヨハネは「世のいる自分の者たちを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」と記します。極みまで愛を注いだと言うのです。そして実際の行動、弟子たちの足を洗うことによってその愛を示されたのです。(133~16) 迎えた客の汚れた足を洗うことは、その家のしもべの務めでした。ところが主である方が最後の時に、ご自分の思いを表し、又大切なことを教えるために、腰に手ぬぐいをまとわれ、膝を折り、身をかがめ、弟子たち、実はこの中には既に主を裏切っていたユダもいましたが、彼らの足をたらいで洗い、手ぬぐいで拭いておられのです。途中、ペテロが驚き、やめてくださるように言い、諭された時、主に対して手も頭も洗ってくださいと願ったという微笑ましい場面もありましたが、主は最後の一人まで弟子たちの埃まみれの足を洗われたのです。そして、それを終えてご自分がしたことの意味を話されています。(1312~15) 人々のために仕えるために世に来られたこと、特に十字架の死まで受ける存在であることを示されたのです。

 

洗足の後、主は、通報するために出て行ったユダを除く残った弟子たちに最後の教えをしています。14章から16章までです。全部読むならば、主の御思いがよく分かるのですが、この時間ではとても無理ですから、是非、後で時間をとってお読みください。

 この時、主は大切なことをいくつも言われています。要約しますとまず14章、天において、信ずる者たちを迎えてともにおらせる場所を備えること、ご自分は人が神のもとに行く唯一の道であり、父なる神と一体であること、更に主が去った後、もうひとりの助け主である御霊が与えられることなどです。それゆえ15章、ご自身がいなくなった後でも主の愛の中にとどまり、そして主があなたがたを愛したように互いに愛し合うこと、あなたがたが主を選んだのでは

なく、主によって選ばれている者たちであること、そして16章、再びご自分はいなくなるが、もうひとりの助け主であるすばらしい御霊が与えられることについてです。

 

これらの長い教えの後、17章において信ずる者たちのために、主は、父なる神に大祭司の祈りと言われている祈りをささげています。ここにおいて主は、神の御技を行う時が来たこと、信ずる者たちを神の御名の中に保つこと、即ち、彼らが神の民として守られるように、神にあって一つとなり、この世において主の栄光を現すことが出来るようにと切々と祈っているのです。特に信ずる者たちが一つとなるように五回も繰り返しておられます。

 

その後、主は弟子たちと共に過越の食事をした家を出て、エルサレム郊外のオリーブ山、ゲッセマネの園に行かれ、父なる神に「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりにして下さい。」と苦しみもだえる、汗が血のしずくのように落ちる祈りをささげておられるのです。(ルカ2242節、44) その時、ユダに率いられた一隊の兵士と祭司長、バリサイ人から送られた役人たちがともしびと武器とを持って主を捕えるために現れ、弟子たちとの小競り合いがありましたが、主ご自身が「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ2652~54)と言われ、ご自分の身柄を委ねられたのです。

   それから事態は急展開しています。主を捕えた者たちは夜が明けるのを待たず、一定の裁判権を認められていた議会の責任者である大祭司の家に連れて行き、夜が明けるとすぐに主を裁くために議会を招集し、取り調べをしているのです。イスラエルにとっては大切な過越の祭りの時であり、その日、金曜日の夕方から特別の大いなる安息日が始まる前に全て終わらせ、汚れないようにしたいという思いの表れでしたが、異例の取り扱いです。そして、議員であるイスラエルの指導者たち全員は、慌ただしく「イエスを死刑にするために協議し」(マタイ271)、「私たちには、だれを死刑にすることも許されていません。」(ヨハネ1831)とローマ総督ピラトに速やかに引き渡し、「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」(ルカ232)と強く訴えているのです。何としてもこの日のうちに主を死刑にしたい、取り除くという思いに溢れていたのです。そして心が定まっていなかったピラトに圧力をかけ、死刑、十字架刑をくだすように追い込んでいるのです。

 

◆(終わりに) この一日から見えてくる主の御思い

 このような直前の一日から見えて来るのは、ご自分の最後の時が来たことを知られたうえでの主の御心、思いです。弟子たちを最後まで愛し、弟子たちの足を洗われ、ご自分が去った後のことまで細やかに示され、そして本日の個所にあるようにご自分を十字架刑につけた者たちのために父なる神に祈っていてくださる姿です。

 主は、十字架刑を父なる神の御心として避けることができない、必要なこととして受けとめられました。弟子たちのような弱い、欠けだらけの者であっても、又自分こそ正しいと主を十字架刑につけた者たちのようであっても、一人ひとりは本来、神によっていのちが与えられている神の目にかけがえのない存在であるからです。いつも言いますように、元々の十字架は美しいものではありません。残忍でむごたらしい、特別に苦痛を与える死刑の方法です。この残忍な死刑の方法を主は罪によって支配され、本来のいのちを失っていた人を救うために忍んでくださいました。それが直前の一日が示す真実であり、メッセージです。その御心をもう一度、受け取めましょう。