キリスト者をとりまく世界

❖川口 昌英 牧師

聖書個所 ローマ人への手紙818~25      

中心聖句 

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。

だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むのでしょう。

                         ローマ人への手紙824

説教の構成

◆()この個所の意味

 前回、御霊によって、子、又共同相続人になるという恵みが与えられていることを見ましたが、本日の個所においてパウロは、信ずる者たちが置かれている現実と罪の支配にある被造物の状況について語ります。世界、被造物全体も、キリスト者も贖なわれること、本来の姿に買い戻されることを待ち望んでいる、そして救われた者は、それに対する希望を持っていると言うのです。救いの恵みをいただいたキリスト者を取り巻いている現実世界の姿とその将来について語っているのです。

◆(本論)キリスト者を取り巻く現実世界の姿、その将来

まずパウロは、キリスト者の現実世界での立場について、主にあって生きる者は苦しみを受けると言います。しかし、それらの今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば取るに足りないものであると断言します。(18)

 「今の時のいろいろな苦しみ」について、特にローマで皇帝崇拝を拒否したことや、聖餐式の「主の血と肉」という表現や互いに兄弟姉妹と呼び合う姿が誤解されて邪教と思われ、迫害されたことと考える人もありますが、それに限定する必要はなく、世界のあらゆるところで起きていた主を信じる者に向けられた攻撃、迫害であると思われます。第二コリント1123節以下で、パウロは受けたさまざまな苦難、異邦人だけでなく、同胞であるユダヤ人からも迫害されたこと、又外からだけでなく、内部においても偽りの教えによって教会が崩壊する危機に陥ったことについて語っています。主を信じて生きようとするならどこでも、又外部だけでなく、内部でも苦しみがあると言うのです。弟子テモテに「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第二テモテ312)と書いている通りです。

 

続いてその苦しみを受ける理由について、被造物全体が罪のもとにあるゆえと言います。言葉で言っている訳ではありませんが、当然、キリスト者が受ける苦しみと被造物の姿はつながりがあるのです。尚、ここで言われている被造物について、ある学者は、キリスト者以外の全ての存在と言っています。自然、環境だけでなく、さまざまな制度、団体、即ち学校、地域社会、会社、国家なども含めて良いと考えます。

 何故なら、どれも人が生きるうえにおいてなくてはならないものであり、その本来のものは御心にかなうとして立てられたものと理解できるものです。それらが罪のもとにあるとは、例えば131~5節において国家の本来のあり方が明らかにされていますが、歴史上の現実の国家がその本来のあり方から外れているようなことです。(朗読) こうして全ての被造物が罪のもとにありますから、それらも「切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる」(19) 、救われ、神を恐れる神の子たち、そのもの本来の姿を取り戻す者たちが現れることを待ち望んでいるのです。

 被造物がそのように願うのは、現在の虚無の状態、自然環境であっても、社会のさまざまなものであっても、本来の姿、性質を失い、そして世をつらくさせているのは、そのもの自身の性質のゆえではなく、先に1章の方で明らかにしたように、人の罪のゆえに神が裁きとして、「人が考える自由に引き渡した」からです。(20)、そのゆえに罪、誤っていることを認め、悔い改めるならば本来の姿、性質を取り戻すことが出来る希望があるからです。

 そのように悔い改めるなら、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるのです。」そのもの本来が持っている、人に喜びや平安、希望を与える働きをするようになるというのです。(21)

 

そしてパウロは、被造物全体がこのような状況にある中で、先に贖われ、創造者である神のもとに立ち返っているキリスト者は、被造物全体が今に至るまで、罪のもとでうめき、新しい命を産み出すために非常な苦しみをしていることを深く知っているというのです。(22)

 さらに知っているばかりでなく、御霊の初穂をいただいている、他のものよりも先に御霊の導きによって救われ、恵みをいただいたキリスト者自身も苦しみの中でうめき、言葉に表せないほどの痛みを感じながら実際に子にしていただくこと、すなわち、からだの贖われること(終末の時に実現する完全な存在になることと思われる)を待ち望んでいるというのです。(23) 被造物全体、全世界が贖われ、御心が実現する世界になることを願うと共に自分自身も永遠に贖われることを待ち望んでいるというのです。こういう世界を待ち望んでいるから、苦しみ多い現実生活を希望をもって送るというのです。(24~25)

 旧約との繋がりで福音のすばらしさを伝えているヘブル書の11章において「信仰によって」生きた人々がとりあげられていますが、当時、キリスト者を取り巻く状況が厳しくなりつつあった中、信仰者の生き方(ヘブル111) を示し、励ますためと思われます。信仰によって生きるとは約束に対する確信を持ち、希望によって生きることであると示しているのです。被造物全体が罪のもとにある中で信仰によって生きるクリスチャンの姿を明らかにし、励ましているのです。

 それは、普通の人には出来ないという生き方ではありません。私たちの身近かでもそういう生き方をしている人がいるのです。自分の病気や家族の病気のために、又一人で生活しているために、その他さまざまな理由によって非常に厳しい状況、主を知らない人であるならば暗い日々になって行くと思われるのに、深い喜び、平安、希望を持って生活している人がいます。地に足をつけ、心は見えない希望を持って生きている人がいるのです。

 

◆(終わりに)世界は変わる、だから信じて行こう

 信じても周りも世界も何も変わらないではないかと思う人がいます。特にクリスチャン人口が増えていない日本では何も変わらないと思われています。確かに表面上はそうかも知れません。

 しかし、没後、何年も経ちますが、クリスチャン作家である三浦綾子さんの作品は今なお、多くの人々に読まれ、絶望している人々に希望を与えています。又あの瞬きの詩人、水野源三さんの詩、俳句、短歌もそうです。更に星野富弘さんの作品は日本の中だけでなく、世界中で生きる勇気、力を与えています。この人々に共通するのは、ただ神により頼み、神を見上げている、生きた本物の信仰です。うわべに惑わされないでください。この国はキリスト教にとって沼地である、いくら福音を伝えても何も変わらないという意見に左右されないでください。そしてそれは日本だけではないのです。世界、被造物世界、どこでもまだ主の救いを知らない人々は贖われることを待ち望んでいるのです。

 私たちに求められているのは、本物の信仰によって生きることです。私たちが御霊に導かれ、みことばに養われ、真の礼拝の生活を送るなら、必ずそれによって励まされる人がいるのです。実は毎年、多くの人が救われている教会に共通しているのは、特別なプログラムに頼っている教会ではありません。一人ひとりが本当にみことばに親しみ、集会が祝福されている教会です。それぞれが試練にあっている中でも、みことばによって支えられ、真の希望を持っているなら主を知らない人に深い影響を与えるのです。初代教会時代も教会が御言葉に立ち、交わりをし、十字架を重んじ、心を一つにして祈っていた時に多くの人々が救いに入れられたのです。本物こそ力です。