知らされた奥義

山口 伝道師 

聖書:エペソ人への手紙1:314v712) 

中心聖句:

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

 

 

 この時期は受験のシーズンということもあり、教会の子どもたちの中にも受験に臨まれた方たちがおります。わたし自身の受験のことを振り返ってみますと、この受験というものの中で一つの祈りが与えられたことを覚えています。与えられた、というよりも、このように祈りなさいと両親に言われた祈りです。「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」という祈り。受かるかどうか不安な中で、このように祈りなさいといわれたときに、私はそのように祈りはしましたけれども、果たして心からそれを望んでいたかというと、疑問が残ります。みこころのとおりになりますように、自分の思いではなく神様の計画がなっていきますようにと願うことは、時にとても難しいものであります。神の計画と私たちの思いというのは、時に大きく掛け離れていることがある。私たちは神の計画のすべてを知ることはできないのです。そのような中にあって、本日のエペソ人への手紙、先ほどおよみいただいた箇所に記されている御言葉というのは、確かに神の計画のすべてを知ることは私たちにはできないけれども、その神様の計画がどこに向かっているのか。それを実に豊かに教えている箇所であります。この御言葉をよむときに、私たちはそこに希望を置いて、神様の計画がどこに向かっているのか、ということを共に覚えつつ歩んでいけたらと思います。

 

連続してエペソ人への手紙を読んでおり、またその中で「教会とは何か」ということを、続けて学んでおります。前回お話をさせていただいたときには、先ほどお読みいただいた大頌栄314節の内、36節を特に見て参りました。世界の基の置かれる前からの選び、きよく傷のない者にしようとされた神様。さらにそれはご自分の子にしようとするほどに、深い愛をもっての計画に基づいたものであったと前回の箇所には書かれていました。本日はそれに続く712節を重点的に見ていきます。

 

 血による贖い、罪の赦し、神の豊かな恵み

「世界の基の置かれる前」、すなわち人の一切の良い行い、一切の良い考えの生まれる前、その前兆すらも存在する前からある救いの計画を立てておられる神様のわざは、具体的に次のような形で進められて行きます。v7この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この方、と言われているのは、6節の「愛する方」すなわち、イエスキリストであります。イエスキリストにあって私たちはその血による贖い、罪の赦しを受けている。直訳では手に持っている、もちつづけているという意味です。かつて一回だけ経験したというだけでなく、今でも、その血による贖い、罪の赦しを今でも手にしている、この手に握りしめている、と言われているのです。その中に生かされている。贖いと赦し。キリスト教の大切な教えであり、私たちの救いがいかになされるのかということの中心がこの一節に集中しています。贖い、とは代価を払って「自由にする」、「解放する」ことを意味します。すなわち、自由ではない、解放される必要がある状況にそもそもあったわけです。聖書ではこの解放される必要がある状況、つながれている状況を、罪の下にある、罪の奴隷であるというように教えます。二人の主人に仕えることはできないと言いますが、罪を主人としている者、罪の奴隷は、神を主人にすることができません。そして主人である罪からの来る報酬は死である。人はここから抜け出すことができず、どんなにがむしゃらに探し求めたとしても、逃げようとしても、どこにもたどり着くことはできません。あるのは永遠の滅びだけ。ある人はこれを、暗やみをあてどなく歩く様子に例えます。どこへも行くことができず、どこを目指しているかも分からない。

 

ここから抜け出すためには、他の、外からの力によるしかないのです。それが贖いです。奴隷制度の中でこの言葉はよく使われていますが、そこでは単に解放だけではなく、解放してくださった方のしもべとして扱われるようになるのです。旧約では「買い戻し」という制度として知られていました。自分のものとして、買い戻すのです。

 

無料で身柄が引き渡されるわけではなく、先にもお話ししましたように、代価が支払われなければならない。それが、神が愛する方、ひとり子であるイエス様の「血」でありました。それほどまでに、と言わざるを得ないでしょう。それほどまでに、神はこの罪の奴隷を愛してくださったのです。血を流し、買い戻さなければならない、取り戻さなければならないと、神は計画しておられた。滅びるままにせず、暗やみの中に迷う罪人を捜し出し、声をかけ、その罪の束縛から外へと連れ出されるのでした。それを著者であるパウロは「神の豊かな恵み」であるというのです。恵みの豊かさ、と直訳されますが、これはこのエペソ人への手紙の中で何度も登場する表現であり、その意味では、このエペソ書は神の恵みの豊かさを至る所で強調し、確認するように促していると言えるでしょう。何度も思い出し、その恵みの豊かさへ帰っていかなければならないと教えるのです。繰り返しになりますが、人の力によるのではない、良い行い、良い思いによるのではなく、ただただ豊かな恵みなのです。それは前回の、選びの始まりについての教えから一貫して言われていることでした。世界の基の置かれる前から、神様は選び愛していてくださる。圧倒的な神の主権の中で、私たちの救いは進行していくのです。

 

 パウロはさらに、この神の豊かな恵みについてことばを続けます。8,9節の前半。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。あふれさせる、という言葉は泉から水がこんこんと湧き出る様子をあらわしています。先ほどの七節、その血による贖い、罪の赦しを受けている、現在でも手にもっている、握りしめているということと併せて考えることができるでしょう。これらの恵みは、歴史的一回の出来事で終わるのではなく、救われた後、日々の生活を歩む私たちの内から溢れ出る恵みとして、今でも湧き出ている、と言えるのです。私たちのうちから決して枯れることのない泉のように、今日も湧き出ているのです。一回だけの恵みであるならば、それによってその時は慰められることがあるかもしれません。しかし更なる試練や苦難に直面した時、あるいはそれは過去のこととして、あの時は助けられたが、と色あせたものとなってしまうでしょう。しかし過去一回だけの出来事ではなく、今日でも、私たちの中に生きている泉として与えられている恵みであることを覚えるときに、私たちの生き方というのも自然に変わって来るのではないかと思うのです。サマリヤの女の記事がヨハネの福音書4章にあります。イエス様が出会われたサマリヤの女、彼女に対して、イエス様は生ける水について教えています。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」サマリヤの女というのは、人に打ち明けることのできない罪を抱えた女性でした。人目をはばかり、一人で生きていた、苦しみの中に生きていた。彼女の心のすべてをご存じのお方は、わざわざこの女性に会うために回り道をされ、この生ける水、永遠のいのちへの水を与えられるのでした。神の豊かな恵み、サマリヤの女に与えられ、イエス様に出会った私たちに注がれたそれは、このように豊かに、今でも私たちのうちに湧き出、続けるものなのです。

 

さらに、これらの恵みに加えてあらゆる知恵と思慮深さをもってみこころの奥義を知らせてくださると言われます。他の翻訳では知恵と思慮深さを与え、みこころの奥義を知らせてくださる、というように訳されています。知恵と思慮深さというものが、まず賜物として私たちには与えられており、その与えられている知恵と思慮深さをもって、神の御心の奥義を知るようにと言われているのです。つまり、私たちが知ることを望んでおられるのです。知恵と思慮深さ、これは似たようなことばでありますが、明確な違いがあります。ある神学者はこの違いを「永遠に関する究極的真理を理解する力」と、「その時々の問題を解決する力、日々の生活に関する事柄を理解する力」として表現しております。永遠の事柄と私たちの日々の生活に関する事柄、その両方に関する知恵が与えられている。ということは、私たちは、神のこと、永遠に属することを知り、私たちの日常の生活この地上での歩みを、与えられた思慮深さをもって生きていくことが望まれているということができるでしょう。天のことだけでなく地のことに関しても知恵が与えられている。これもまた、今日の私たちがどのように生きるかを教えるためのものなのです。修道院のように神のことだけに思いを巡らし世捨て人のように生きるのではなく、地上にあり罪の渦巻く世界の中にあっても神の知恵を持って生きることが言われているのです。どちらか、ではなく両方を知る知恵が与えられているということは、私たちがその与えられている知恵をもって、思慮深さをもって生きることが求められているのです。何よりも、その知恵によって知るように言われているのは「みこころの奥義」なのでした。奥義とはミュステーリオン、英語のmysteryの元となったものです。他の箇所では神秘、不思議と訳されています。しかし聖書でこのことばが用いられている場合、それは単に人間には理解できない超自然的なことを意味するのではなく、「かつては隠されていて、神の時の中であらわされたもの」、すなわち神が明らかにされたもの。これを奥義とよんでいるのです。知るようにと示されたもの、それが奥義なのでした。

 

 神の計画の完成

 それでは、かつては隠されていて今や明らかにされたもの、とは何を意味しているのでしょうか。神からの知恵をもって知るように言われている神のみこころの奥義とは、一体なんなのでしょうか。それは、と著者は続けます。9節の後半から10節。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。前半の、あらかじめお立てになったみむねによること、という言葉を読むとき、私たちは直前の箇所に書かれていたことを思い出します。前回の箇所ですが、4,5節をお読みします。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前できよく、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエスキリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。みこころの奥義。それは、愛をもってあらかじめ定められていた神の計画です。選び、きよく傷のない者にしようとされる計画、ご自分の子にしようとされる計画です。愛する御子の血による贖いと罪の赦しによって押し進められた計画です。この、世界の基の置かれる前からの計画が、時がついに満ちて実現するのです。この奥義を、あなたがたは与えられた知恵と思慮深さをもって知るようにと言われているのです。世界の基の置かれる前から、そして時がついに満ちて実現する時まで、この一大パノラマの歴史の中で、神の救いの計画が用意されている。そしてその中で、今の私たちが生かされているのです。計画の初めが示され、そしてその計画の実現である時が満ちるとき、いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められる。私たちのすべての歴史は、ここに向かっているのです。

 

すべてのものがキリストにあって一つに集められる。実はこれは、エペソ書を読み進めて行く中で再び登場し、さらに詳しく述べられていきます。ここではそのさわりとして、しかし計画の始まりと結びあわされて大きな展望をもって、計画の全体があらわされているのです。永遠から永遠への計画ということもできるでしょう。一つに集められる、という言葉は珍しいものであり、新約聖書では他にもう一カ所、ローマ人への手紙13章で「要約」と訳されて登場するだけであります。すべてのものはこの方、血をもって贖い、罪の赦しを与えてくださったイエスキリストに要約される、そのように言われているのです。そうであれば、これは単に場所的に一つの場所に集められるということではないことが分かります。最初に罪の奴隷と神の奴隷というお話をしました。贖いということに関しての話です。当然主人が違うもの同士、そこには平和や一致はありません。いや罪を主人にするということは、自分自身を王座に据えることでもあり、人は自分勝手にふるまい、やはり平和や一致は生まれ得ない。そこには怒りやねたみが満ち、分裂や争いが絶えずあります。表面的には和やかなようであったとしても、本当には一つになることができない。それが罪にある時の私たちだったのです。しかしそのような中にあって、一つとされる、キリストにあって要約される、まとめあげられるというのです。和解がここにあるのです。歴史はすべて、このキリストにある和解に向けて勧められている。神の計画はすべて、神との和解。そしてそれに基づく人と人との和解へと向けて進められているのです。

 

 これは時がついに満ちた時、歴史の終着点、神の計画が完全に実現される時の描写です。やがての日の出来事であると言ってよいでしょう。今なお、世界には憎しみが渦巻き、その中で苦しみ悲しみが多く存在しています。だからといってそこから、自分自身で逃げ出し解放されることはできない。しかし、それはやがてのことであると同時に、すでに私たちの教会においてあらわされている。時がついに満ちて実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。これは、私たちのこの地上の教会に置いてもすでに表わされていること。キリストのからだ、と呼ばれる教会には多くの器官があることが言われています。昨年、共にお読みした箇所ですが、Ⅰコリント12;1213ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。イエスキリストとともに死に、イエスキリストとともによみがえる。このバプテスマを受けて私たちは一つとされているのです。キリストにつながれて、一つとして建てあげられていくのです。

 

 「やがて」の完成を「すでに」与えられている恵み

 確かに、現実のキリストの教会には、弱さや欠けがあることも事実です。やがての完成を待ち望むあくまで不完全な存在であります。けれども、私たちにはやがての完成を待ち望みながら歩むことが許されているのです。すでにその、やがての日、神様の計画が完成される時の喜びをすでに味わうことが赦されているのです。みこころの奥義、それが知らされているということの意味を共に覚えたいと思います。知恵と思慮深さを賜物として与えるまでして、この奥義、救いの全体像とやがての完成を、神は私たちにお知らせになりました。事実として与えられている血の贖いと罪の赦し、そしてその救いの完成がどのようなものであるのかを、知られなければならないのです。パウロは続けます。11,12節この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的にしたがって、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。この二節に関しては、次回の13,14節を扱う際にもう一度詳しく見たいと思いますが、ここでも前回同様、あらかじめ定められたのは、私たちが神の計画の中に置かれているのは、神の栄光をほめたたえるためであると言われているのです。神の栄光をほめたたえるために私たちは神の計画の中に置かれており、そしてその計画、神の御心の奥義を知るようにされているのです。神の栄光をほめたたえる人生、それは、私たちがどのようなものであるのかを知った上ではじめてなし得るものであります。自分たちの救いがどのようなものかを知らないでは、私たちは神の栄光をほめたたえるどころか、神を見上げることさえもしない。主は私たちにその豊かな恵みを知らせてくださり、やがての日の確かな完成を約束してくださり、喜びをもって生きるようにと立たせてくださったのです。それは過去一回のことではありません。今でも私たちのうちに渾々と溢れ出す恵みの豊かさです。そして、世界の基の置かれる前からの選びに安堵し、今わき上がる恵みの豊かさを喜ぶだけでなく、やがて与えられる完成に希望を持って生きることができる。やがての日の完成、キリストにある完全な和解、一致という希望が与えられている私たちは、その希望を見上げながら歩むことが、できるのです。そのために、神は奥義を知らされた。神の奥義を知らされた私たちの生涯は、神の栄光をほめたたえる生涯であります。それは、人生がうまくいっている時だけでなく、むしろ人生の谷や山があるとき、悲しみや苦しみがある時、その中でこそ、神の栄光をほめたたえることができるのです。神の計画が私たちには示されており、神の計画の完成が約束されているからです。

 

 まとめ 「奥義」神の計画が知らされているという恵み

 明日は311日、東日本大震災から二年をむかえる日です。あの震災にあって、それまでの生活が一変しました。それまで手にしていたものがすべてひっくり返り、将来の計画、予定などもすべてが崩れさった。明日どうなるかも分からない状況へと追いやられ、まさに先の見えない状態の中を歩まざるを得なくなった。ボランティアの際、気仙沼の海岸沿いを尋ねました。一目で津波のあとが分かるがれきの中に立つときに、ありきたりの表現ではありますがことばを失うということを経験しました。それは、目の前に広がる状況を形容することばが見当たらないというよりも、何を言っても何をしても無駄ではないかという喪失感に襲われたからでした。それほどまでに圧倒的に崩れ去った現実がそこにはありました。私たちが生涯歩んでいく中で、主よどうしてですかと叫びたくなることがあります。なぜこんなことが起こるのですかとつぶやきたくなることがある。

 

 確かに私たちには歴史の意味のすべてを知ることが許されていません。しかし、神は、最期には必ず成し遂げてくださる方であるのです。キリストの血によって贖われ罪赦された私たちはそのことを知っている。いや、知るようにされているのです。今の時は苦しみが多く、悲しみに涙することがあったとしても、主はやがての日の希望を示し、その希望に立って力強く生きるように、その計画をお知らせになっているのです。私たちはそのことを覚えて歩んでいきたいと願います。新しい週の歩み、皆さんが希望を見上げた歩みでありますように。