子としてくださる御霊

❖川口昌英 牧師
❖聖書個所 ローマ人への手紙8章12節~17
❖中心聖句 
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは、御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
                             ローマ人への手紙8章12節
❖説教の構成
◆(序)この個所について 
①救われている者は、律法に対して新しい思いが与えられると語って来たパウロですが、この個所において、その生き方は肉による生き方ではなく、御霊に導かれる生き方であることを再び確認しています。(12節~13節)
   そして、御霊(三位一体の第三位格である神ご自身)がもたらす恵みの豊かさについて明言しています。信じる者を子とする道を開き、実現して下さる方であると言います。御霊は、誤解されることがあるが、人を恐怖に陥れる奴隷の(うちにある)霊のようなものではないと強調します。奴隷の(うちにある)霊と正反対の、背き、遠く離れていた者を愛し、子として下さる、真に恵みに満ちた方であると言います。(14節~16節)
②続いて御霊によって子とされていますから、それゆえ信ずる者は神の相続人、キリストとの共同相続人、豊かな希望を持つ者であると言うのです。(17節)

◆(本論)御霊は生きて働くお方
①パウロは、まず救われた者の生き方は肉に従う生き方ではないことを確認します。言うまでもないことですが、敢えて再確認しているのです。失望して再び肉に従って生きようとしている人々が見受けられたからです。肉というのは、罪、自分中心の生き方です。信じたけれども何も変わらないと落胆して、信仰によって生きることを諦め、福音を知る以前と同じように自分の思いや欲や力で生きようとすることです。いのちのことばが与えられていること、キリストのからだに属していること、永遠のいのちが与えられている恵みを思わず、自分の殻に閉じこもり、自分を基準として考え、行動する姿です。パウロは、私たちの生き方はそのようなものでない、そういう生き方から離れてしまっていることを強く言います。(12節) もし、そういう生き方を続け、改めないなら神のまえに死ぬ、自分から恵みとは無縁の人生になると指摘します。(13節)

②続いて、信仰生活を導く御霊のすばらしさについて語ります。特に救いにおいてなしてくださった大きな恵み、だれでも信ずる者を神の子としてくださる恵みについて強調します。(14節)
 どのようにでしょうか。三位一体の神である御霊は、啓示であるみことばによって人の中心に働きます。集会の中で語られることを聞いたり、自分で読んだり、みことばに触れる時に、ヨハネ16章13節(朗読)にあるように一人ひとりに働かれるのです。大切なものを見失っている罪の中にいることに気づかせ、御子主イエスによる罪の贖いが自分のためであったと悟らせ、悔い改めに導き、これからは主のもとにあって生きる者、愛されている者としてくださるのです。
 御霊の働きについて考える時、最終の到達点は同じですが、一人ひとり、その人に最もふさわしいように働かれるということを知っていることは有益です。というのは、以前にも話したように罪を感じる点や救い、赦しを感じる点が違うからです。ある人は人間関係によって自分の罪を感じています、ある人は自分の不品行、又ある人は自分自身に対する不安や恐れによってというように、罪の根本は創造主から背を向けて生きていることにおいては同じですが、具体的に罪、そして又赦しを感じる点は各自違っているのです。
 御霊は、一人ひとりにふさわしく働き、愛を示し、悔い改めに導き、神の子とされているという確信を与えるのです。福音書に出てくる主とお会いし、救いに導かれた人々のことを思い起こすとそのことが良く分かります。不道徳な生活で有名な女(ルカ7章)、エリコの町の取税人のかしらザアカイ(ルカ19章)、イスラエルの指導者であったニコデモ(ヨハネ3章)、心に深い渇きを持っていたサマリヤの婦人(ヨハネ4章)、38年間病気で苦しんでいたベテスダ池の男(ヨハネ5章) 皆、罪人、罪に中にいた者たちですが、苦しんでいる点、罪を感じている点は違っていたのです。御霊はその一人ひとりにふさわしく働き、罪を悟らせ、救いに導き、神の深い愛で満たし、あなたはかけがえのない、愛する者と神の子としてくださったのです。そして私たちにもそれぞれにふさわしく働き、今、神の子にしてくださっているのです。

③続いてパウロは、御霊は人を再び恐怖に陥れる奴隷の(うちにある)霊のようなものではないと強調します。信じた者を新しい主人のもとに売られた奴隷のようであると見る者がいたからです。新しい立場になり、今までと大きく変わったということにおいては共通ですが、御霊は、そんな奴隷を支配している霊とは全く違います。奴隷の霊の中心にあるのは恐怖です、罰を恐れる思いです。拘束されている思いです。しかし、御霊は反対に人に自由を与えるのです。そして自由とともに喜びや平安を与えるのです。罪と死の支配からの解放、神の愛の確信、永遠のいのちが与えられた喜びです。御霊は、信ずる者が罰を恐れて恐怖心を中心として生きるようにする方ではありません。反対に、神に対してそれまでの恐れや遮っていた壁を取り除き、「アバ」、幼い子どもが父親に呼びかけるような自由な関係、喜びと親しみを与えるのです。

④それゆえ御霊に導かれて「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら」神が与えられるものを受け継ぐ相続人、しかも主との共同相続人であると言います。(17節) 父なる神が人に対して備えられた、神とともにある新しい人生、又天の御国を受け継ぐ者です。豊かなめぐみを受ける立場です。小説などで、全く想像もしていなかった親族の遺産を受け継ぎ、生活が一変する人のことが描かれることがあります。特に貧しい生活をしていた者が劇的に裕福になるということが取りあげられます。それまであった生活や将来に対する不安な思いが一挙に解消するのです。そして人生が全く変わるのです。
 神である主が私たちになしてくださったのはそれよりもはるかにすばらしいことです。罪の中に生き、生きる喜びも平安も持てず、死の深い恐怖に覆われていた者が罪の贖いのゆえに、神の与える救いの人生、神の子となり、永遠のいのちを持つようになると言うのです。奴隷ではなく子として迎えられるのです。ここで特別に「主との共同相続人」と言われているのは、これらの救いの恵みが主によって与えられたことを示し、主は救われた者といつまでもともにいて下さる方であることを表しているのです。

◆(終わりに)子とされ、相続人となった姿
 御霊によって子とされ、又相続人となった者の具体的な姿とはどんなものでしょうか。まず、立場が変わっています。罪と死の支配の中で孤立し、孤独であった状態から、今は創造主、神のもとに迎えられ、愛する子となり、孤立、孤独ではなくなっています。それゆえ生きる思いの中心が変わっています。恐れや不安ではなく、深い喜びと平安、又希望です。そして生きる目的も大きく変わっているのです。又、人が一番虚しさを感じる死に対しても主のもとに迎えられ、やがて再臨の時に復活するとの約束が与えられています。
 クリスチャンは現実離れをして生きる存在ではありませんが、一方、見えないものを見て生きる存在です。ですから、時には厳しい状況に置かれても深い喜びを持ち、希望を抱いているのです。御霊はそんな私たちを慰め、励まし、愛されている者にふさわしく生きるようにいつも共におられ、導いてくださるのです。みことばを慕い求めましょう。御霊が豊かに働いて下さいます。