肉の力、御霊の力

 

❖川口昌英 牧師

聖書個所 ローマ人への手紙81節~11

 

中心聖句 

「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、

からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」

                                     ローマ人への手紙 810

 

説教の構成

() この個所について

  主に従う信仰を聖書全体から体系的に、又その本質を明確に論じているローマ書を続けて見て行きます。本日の個所は、5章から続く義とされた者に関する個所 であり、直接的には前回見たところの救われた者の霊的状況についてさらに語っているところです。内容的に三つに分けることが出来ます。救われた者の原則状 態(1~3)、救われた者の生きる目的(4~7)、救われた者に働く御霊の力(8~11)についてです。


(本論)救われた者の霊的状態 

 

① まず第一の部分です。救われた後もしたいと思う善を行うことが出来ない、反対にしたくない悪を行っているゆえに、「私は本当に惨めな人間です。だれがこの 死のからだから、私を救いだしてくれるのでしょうか、私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。…」(724~25)と言ったパウ ロですが、しかし大きな意味では、今キリスト・イエスにある者は、罪に定められる、神の前に有罪とされることはないと明言します。義とされた者の原則につ いて語るのです。 

 

 これまで見たように実際に思う通りの信仰生活を送ることができなくても、原則として神の前にもはや有罪ではないと言うのです。何故なら、御霊の働きによって救いに入れられ (第一コリント123)、その御霊の中心にある愛と恵みがそれまで人を強く拘束していた罪と死の支配から、既に信ずる者たちを完全に解放しているからと言います。 

 

  そのことについて3節では肉、自分を中心とする生き方では、無力となり、律法の真意も分からず又行うことも出来ず、神の義とほど遠かったのですが、御霊が 働いてくださり「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された」のは自分のためであると悟らせて くださり、明らかな救いに入れてくださったと言うのです。 

 

  直前のところで見たように、確かに現実には霊的葛藤があるのですが、既に御霊の働きによって罪と死の支配から救い出されていますから、もはや神から有罪の 宣告を受けることがないと言うのです。とかく救われた後も、内面を見て自分は駄目だ、自分は救われていないのではないかと思う人もいますが、神の前には確 かに義とされているのだと強く言うのです。

 

 

② 続いて、救われた者の生きる目的について踏み込んで語ります。(4) まず肉に従って歩まず、肉に従って歩まないためと言います。当然のことですが、しかし、とても大事なことです。この短い言葉には、肉、神に背いて自分を中 心にして生きる「罪」がいかに悲惨であるかという思いが込められています。それは生きる目的を持てず、自分を見失い、欲望に支配され、又他の人を認めず、 貪る姿であり、一時的に繁栄しているように見えても結局は真の幸いではない、実は不安と恐れに満ちた生涯である、神が人を救われたのは、もはや人がそうい う生き方をしないためであると言うのです。

 

 さらに救われた目的について「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるため」と言います。御霊の働きによって救われ、真理を示され、慰められ、励まされて生きるようになった私たちが律法、即ち神の御心に従って生きるようになるためなのです。

 

 これは再び律法に縛られるという意味ではありません。そうではなく、御霊に導かれて救われた者として新しく生きる道しるべ、良きものとし、大切に思い、従い行うことです。

 

  例えば全体の要約である「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」という律法について言うならば、救われている者として、神がその人をかけがえのない者と して見ておられるように自分も誠実に見るようになることです。いつも言いますように真に愛するとは、主がその人を見るように自分もその人の全人格を見るこ とです。実はすべての人間関係の中心はこの点にあるのです。

 

  少しはずれますが、多くの人は愛とは思いだと思っています。どれだけ自分の思いを相手に伝えることが出来るか、又相手においてはどれだけその思いを伝えら れているか、それが愛において重要と考えられています。そのため、自分と相手の感情が触れ合うことが愛だと思われています。しかし、そこには自分の思いや 願望はありますが、真に相手の人が健やかに平安を持って生きて欲しい、そして生きる意味を見いだして本当に幸いな生涯を送って欲しいという相手を思う姿は ありません。愛の中心は自分の感情ではなく、主がその人を見るように受けとめ、そのために尽くすことです。親子間、異性間においてもそ愛の本質は同じで す。 

 

  このように救われている者にとって律法は、もはや束縛、命令ではなく、生きる道しるべとなり、喜びとなるのです。そして、その理由について5~7(朗 読)で、救われた者はもはや肉、自分を中心とする罪と死に支配された生き方ではなく、いのちと平安を与える御霊に導かれて生きるようになるからだと言うの です。

 

 

③ 続いてその生き方を変え、導く御霊の力について語ります。8~11節です。(朗読) 救われた者の生活の中心は、御霊であることをはっきり言います。ここにおいてパウロは興味深い言い方をしています。9節「神の御霊があなたがたのうちに住 んでおられるなら、あなたがたは肉の中ではなく、御霊の中にいる」一人ひとりについて、御霊が住んでおられるなら救いのわざをなされる大きな御霊の働きの 中にいると言うのです。救いが完全であることを強調し、そして、一人ひとりと共におられる御霊の力の大きさ、豊かさについて語るのです。その豊かな存在で ある御霊は「あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる」本当に変えてくださると言います。

 

  具体的に言うならば、律法の真意を行うことが出来る、神の御心に従って生きるようにしてくださるというのです。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽く し、力を尽くして神を愛すること」「隣人を自分と同じように愛する」ことが喜びとなり、生きる希望、力となるというのです。それは人生が根本的に変えられ ている姿です。御霊は一人ひとりの人生を救われる以前には考えられなかった姿に変えてくださるのです。貪り、奪うことから委ね、与える者に変えるのです。

 

 

(終わりに)自分を見つめるのではなく

 

  以前に見たように救われた後も内面において霊的葛藤があるのですが、ともにおられる御霊により頼む時に主は信ずる者を大いに変えてくださるのです 。救われている人でも一人ひとりの誘惑されやすい、罪の行いをしやすい点は異なっています。ある人はお金、ある人は異性との関係、又ある人は社会的評価を 求めることなどそれぞれ違っています。しかし、共通するものがあります。孤独感が埋められること、自分が受け入れられること、認められること、居場所を持 ちたいという思いです。御霊は、それぞれ弱さが違っている一人ひとりに最もふさわしく働き、存在を認め、孤独を満たし、安心して生きる喜びと希望と力を与 えてくださるのです。

 

  主を信じても何も変わらなかったと感じているなら、自分の一番気になっている弱い部分を主の前に注ぎ出してください。一人子を惜しまないほどにあなたを愛 し、救いに入れてくださった御霊は、それぞれの最も弱いところにおいて働き、そのところを変えてくださるのです。自分の姿ばかり見つめると確かに失望しま す。静まる時、御霊は既に愛されている者とされていることに気づかせ、深い喜びと力を与え、信仰生活に対する新しい思いを与えてくださるのです。御霊は一 人ひとりと共におられる神です。 ありのままを主に委ねて、主と共に歩もうではありませんか。