恵みの栄光をたたえよ

山口 伝道師 

聖書個所 エペソ人への手紙1:314   

 

中心聖句

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」


0.はじめに 

 

前回からエペソ人への手紙を読み始めています。1,2節の挨拶の中で「神とパウロ」、「パウロとエペソの聖徒たち」の間に立ち、結びあわせてくださるイエス・キリストを見ました。キリストをかしらとする教会について教える書物の始まりにふさわしい挨拶だったといえるでしょう。それに続く本日の箇所、314節は一つの長い文章であり、先ほどお読みいただいたことからも分かるように全体が神様への賛美、頌栄の響きをもっています。314の全体を読んでいただきましたが、今朝はその中でも36節を中心的にみていきます。

 

1.頌栄の人生 〜人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、神を喜ぶ〜   

父なる神と主イエスキリストからの祝福を願う挨拶を終えると、パウロはその目を教会から、「主イエスキリストの父なる神」へと向けます。3節をお読みします。私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。口 語訳の聖書では「ほむべきかな」で始まるこの箇所ですが、この「ほめたたえられるように」という言葉は、多くの箇所で「祝福する」という意味をもつ言葉で あります。どのような意味かと申しますと、三節で続いて登場する「霊的祝福」、また「私たちを祝福してくださる」という言葉と同じギリシャ語なのです。で すから、この節では祝福、祝福、祝福と三度も重ねて用いられ、祝福が強調されている、といえるのです。しかしこれらは同じ「祝福」を意味する三つの言葉で すが、少しずつ違っていることは一読してお気づきになるでしょう。後ろの二つは神が人に与えてくださる「祝福」であるのに対し、初めの祝福は神に向けられ ているのです。  

に神から人への祝福としての後半二つの「祝福」を簡単に確認しましょう。「天にあるすべての霊的祝福」をもって「祝福してくださった」。ここではパウロと エペソの聖徒、すなわち、キリストによって結び合わされた「私たち」教会に注がれる祝福がいかに大きいことかと言われています。そしてそれがすでに与えら れていることを教えています。天にあるすべての霊的祝福とは何でしょう。天にある、そして霊的と言われていることから、これが地上において人々が考える 「祝福」とは区別されていることが分かるでしょう。地上での繁栄など、もちろん神様もこれを約束し、そして豊かに与えてくださいますが、しかしそれとは違 う祝福が、すでにキリストによってつながれた信仰者、教会には与えられている、というのです。実はこの3節から始まる14節までの長い頌栄の言葉は、この霊的祝福がどのようなものであるのかを解き明かす形で展開されていき、そしてそれらの霊的祝福が与えられた者、祝福された教会の当然の応答としての「神への祝福」、神をほめたたえる賛美があることを示しているのです。

れでは、人が神を祝福する、とはどういうことでしょうか。準備をしていて感じたこの違和感は、皆さんもお持ちになるのではないでしょうか。与えられている よいものについての「感謝」であるなら分かります。しかし、パウロはここで「祝福あれかし」と声高らかに歌っているのです。人に対してこの「祝福」が用い られるとき、あるときは新しいいのちの誕生であり、あるときは繁栄であります。そして何より、罪からの救いがあげられるでしょう。もう少しギリシャ語本来 の意味を見ていきますと、この言葉の直訳が「良いことを告げる」となるそうです。「良いことを告げる」、その神から告げられる良い「言葉」は「現実」と なって、人々に降り注がれ、人々を導き、人々を救うのです。これが祝福です。そして最たるものは、神の言葉が人の間に住まわれたと言われるところのイエス キリストでありましょう。この神のことばなるお方が、神の祝福の頂点なのです。

それが神から人への祝福なのでした。しかし神は全くの充実したお方、欠けのない善であるお方であります。その神に向けて「良きことを言う」とは何を意味しているのか。完全である御方に、不完全である私たちはなにをなしうるのでしょうか。   

それはその神をそのままに驚き、恐れ、喜ぶこ とであり、すなわち礼拝です。あるいは、神こそ神である、との信仰を言い表すこと、神の栄光をあらわすことであると言えるでしょう。「天にあるすべての霊 的祝福をもって祝福していただいた」私たちは、その良くしてくださった方を知り、その祝福の中を歩むこと、それこそが私たちが神様をほめたたえることに他 ならないのです。先ほど、神からの祝福の最たるものがイエスキリストであると申し上げましたが、まさにこの方にあって、この方に結ばれて生きることこそ、 私たちの礼拝であり、「ほむべきかな」という賛美の歩みなのです。この主をほめたたえる神礼拝は、日曜日のこの時間だけにささげるものではありません。預 言者イザヤを通して神は人の創造を語ります。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」人 は創造のときから、この神の栄光という目的が与えられていたのです。であるならば、この神を賛美する礼拝は私たちの人生の一時期だけであるということはあ り得ません。神の祝福を受けた者は、その祝福の中、神の栄光を、全生活を通してあらわし、証しして行くことが求められているのです。

かし、ほめたたえよ、と命令的義務的にいわれているわけではありません。私たちに注がれている霊的祝福を知るとき、どれほどの恵みなのかを知るとき、自然 と「ほむべきかな」、「私たちの主イエスキリストの父なる神がほめたたえられますように」との賛美が生まれるのです。だからこそパウロは、「すなわち」と 続け、神への賛美の理由を歌い上げるのでした。

2.頌栄の理由 〜選びの教理、ただ一方的な神の恵みとしての救い〜 

4,5節をお読みします。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。有名な箇所ですので、ご存じの方も多いことでしょう。ここでは印象的な言葉をもって、天にある霊的祝福、私たちの救いがどこから始まっていたのかを明らかにしているのです。

「世界の基の置かれる前から」。 これはここだけで用いている、とても珍しい表現です。「母の胎にいたときから」や「生まれる前から」という表現は聖書中多く見られますし、先ほどイザヤ書 で人の創造のときから神の栄光をあらわすという目的が与えられていたことを見ました。しかしここでは、世界の創造の前、時間が存在していない永遠の中で、 すでに神は働かれているのです。この人間の理解を超える言葉を、エペソの人々はどのように聞いたのか、と準備をしていてふと考えました。少し本文を離れ、 エペソという地域について考えてみたいと思います。

この地域にはじめて福音を伝えたのは、この手紙の著者でもあるパウロでした。その時の様子は使徒の働き1820章に残されていますが、中でも興味深い記事、エペソの様子がよく現れている事件が19章で巻き起こります。大女神アルテミスをまつる神殿をめぐってのパウロの教えから、ただならぬ騒動が持ち上がったのです。当事者のひとり、銀でアルテミス神殿の模型を造って生計を立てていたデメテリオという人物は同業者たちに決起を促してまくしたてます。「皆 さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で造った ものなど神ではないといって、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大勢の人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も 信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神の御威光も地に落ちてしまいそうです。」こ のデメテリオと言う人物は、パウロの教えを理解していました。「手で造ったものなど神ではない」と言っている。しかし理解はあっても、受け入れはしていな かったのです。大勢の人々を「迷わせている」時って捨てるのです。聖書は至る所でこの人の手で造られた神、偶像を禁じます。それはむなしいものであり、人 の欲望を満たすもの、自己満足のための産物でしかないからです。人は、その生涯の中で頼るべき存在を自力で見出し、あるいは造りだそうとします。ある人に とっては地位や名誉、お金、神々。それはすべて偶像です。

しかし、人に御自身をお示しになったまことの神は、世界が創造される前から私たちを知り、選んでくださるのです。被造物の一つである人の手で造られた神々とはスケールが違うのです。さらに、自分自身を慰めるために生み出された偶像では、決して与えることのできない「御前で聖く、傷のない者にしよう」と の目的をもって、私たちに関わってくださるのです。世界の基の置かれる前からの選びというのは人の理解をはるかに超えているゆえに、ひどく抽象的、非現実 的なものとして受け止められがちです。結局は分からない、何か神秘的な話、自分となんの関係があるのだろうと思ってしまう。しかし、その選びの目的はと目 を移せば、今を生きる私たちの生活にするどく関与し、私たちを変えようと激しい力を持っているのです。「御前で聖く、傷のない者」。こ れは礼拝の際にささげられるいけにえの動物について言われる表現です。神が聖別されご自分のものとされるのは、きよく、傷のないものでした。しかし、わた したちはというと「御前で聖くなく、傷だらけの者」です。選ばれるに価しない者です。人の目の前でどんなにすばらしい人物であっても、御前、神様の前に あってどうでしょうか。聖い、傷のないと誇れる人間がどこにいるでしょうか。しかし、神は選ばれるに価しない傷だらけの者を選ばれるのです。 

それは「彼にあって」という短い言葉に関わってきます。彼、というのはイエスキリストです。霊的祝福にはいつもこの神の子、イエスキリストがかかわって来るのです。3節でも私たちの祝福に関わる形で、さらに5 でもご自分の子にするために、このイエスキリストが働かれていることが分かります。この方なしに、私たちへの祝福も、救いへの選びも、神の子とされること も、なされえないのです。神からの「良い言葉」、すべての霊的祝福は、すべてこの神の子なるイエスキリストを通して私たちに降り注がれるのです。彼にあっ て、「御前で聖く、傷のない者にしよう」と選ばれた、と言われるとき、小羊として、私たちの罪のために十字架にかかられたその姿を私たちは思い起こしま す。ペテロは言います。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1Pt.1:18,19 私たちは自分自身がたくさんの傷をもっている者であり、神の目の前に到底聖いとはいえない弱さを持つ者であることを知っています。そんな私たちが受け入れ られるためには、御前で傷もなく汚れもないキリストの血が流されなければならなかった。その血によって、私たちは傷の多く、聖さのかけらもないようなもの であったのにもかかわらず、「御前で聖く、傷のないもの」と認められ、受け入れられたのです。いやそれだけではない、神の御前に受け入れられたばかりか、5 ではご自分の子にしようとされている。愛をもって、とありますが、まさにこの愛の暖かい交わりへと招いてくださっているのです。世界の基の置かれる前にな された「神の選び」のわざは、機械的無機質な選別作業ではありません。親しみをもってその名を呼び、救いへと導かれる愛の営みが、この選びであると言える でしょう。

いではなく信仰によって義と認められると言いますが、この選び、世界の基の置かれる前からの選びというのはその究極のものではないでしょうか。人が救われ るのは、人が「御前で聖く、傷のない者とされる」のは、人が「神の子とされる」のは、ただただ神様の一方的な働き、まさに「選び」によるのです。人のどん な小さな功績さえも生まれる前から、神は選んでいてくださる。私たちの救いの確信は、一方的な神の恵み、まさしくここにあるのです。私たちは信仰の歩みを 進める中、何度も何度も挫折します。自分の汚さ、弱さ、罪を見せつけられ、もう同じ失敗はしたくないと思いながらも、気づけばもとの暗闇の中を歩んでい る。そんなとき、私たちの救いの確信を自分自身の中に見出そうとすれば、それはすぐさま失敗し、立ち上がれなくなることでしょう。しかし、神が選んでくだ さるのです。だからこそ、私たちは立つことができ、神をほめたたえる歩みへ向かうことができるのです。

 

3.主の祈り 〜「御名があがめられますように」を体現していく〜 

このような、世界の基の置かれる前からの神の選びをもって霊的祝福は始まっています。それには理由がありました。6節「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」再びほめたたえる、神への賛美の歌が挿入されます。これは少しずつかたちを変えて、14節までの区切りとして繰り返されていきます。12節、14節。 私たちへの霊的祝福、救いは、私たちがほめたたえる者となるために、与えられているのです。与えてくださったとは「恵まれた」という言葉です。恵まれた恵 み、ということで、やはりここでも、一方的な神の愛が示されている。私たちはこの一方的に注がれる神の恵み、そしてその救いのみわざで色濃く表わされる神 が神であることの栄光を表わすために選ばれたのです。

 

4.おわりに 

私たちの救いが選びに始まること、そしてそれによってほめたたえる人生があることを覚えたいと思います。

の神をほめたたえる礼拝、賛美の生活を生きるように言われるのです。イエス様の教えてくださった祈り、主の祈りもそうでした。第一の祈りは、「御名があが められますように」。直前でイエス様は、人前で、人に見せる祈りを厳しく批判しておられます。そして、ただ神の前に跪き、神を神と崇める祈りをせよと教え られる。ほむべきお方はただひとり、すべての栄光を受ける方はただひとりであることを証しして行くのです。

明日は211日、 建国記念の日であり、教会では信教の自由を守る日と定められています。歴史の教会はほむべき唯一のお方を見失い、あるいはあたかもそれに並びうる存在があ るかのごとくにふるまいました。神をほめたたえる礼拝の中で天皇を賛美し、独裁者を神の啓示として礼拝の対象としたのです。これらを考えるとき、教会と国 家の問題、歴史の問題は、決して政治的な問題ではなく、私たちの信仰の問題なのです。そしてそれは日々私たちに問いかけられています。

私たちは、今、だれをほめたたえているのでしょうか。祈りのたびごとに、賛美のたびごとに、私たちのすべての営みを通して、私たちの主、イエスキリストの父なる神をほめたたえていきましょう。