内側を誠実に見るなら

❖説教 川口昌英 牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙7章15節25節 

 

❖中心聖句 

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」 ローマ7章25節

 

❖説教の構成

◆(序)いつのことなのか

 続けてパウロは、更に踏み込んで自分の内面を見つめながら信仰と律法の問題を考えようとしています。一般的考察で問題をクリアしようとしていません。自分の内面において経験している葛藤をありのままさらけ出して、信仰によって生きる姿を示しているのです。

 さて、ここで言われているのはいつのことだろうかについて意見が分かれています。素直に読むならば救われる以前のことであるという考えがあります。それに対して、救われる以前であるならここにあるようなことは言うまでもないことであり、敢えて取りあげているのは救われた後の状態を包み隠すことなく言うためという考えもあります。更には救われた後であるが、まだ霊的に成熟していない時のことであるという説もあります。

 

◆(本論)救われた後の姿

① まず、いつのことを言っているのかについてですが、これまで見て来たように、義認(救われた)の後、信仰者は、聖化の段階(聖霊に導かれ、みことばに親し み、主を礼拝する生活を行うことによって主に似た者に変えられて行く過程)にあるのであり、栄化、完全にきよめられた状態になったのではありません。それ ゆえ内面では霊的葛藤は続くのです。

  又、この個所は文脈的には救われた者と律法の関係について続けて言われているところですから、多くの方は驚くかも知れませんが、この個所は救われた後のこ とについて言っているものと思われます。(ちなみに、よくお話します古代教会において信仰教義の確立のために大いに貢献したアゥグスチヌスは、始めは救わ れる以前のことを言っていると理解しましたが、後になると、ここは救われた後のことであると意見が変わっています。)

 このように考えることに対して、特に23節~25節(朗読)を見るならばやはり救われる以前のことではないかと言われるのですが、パウロのように自分を正直に見る人間にとっては、完全にきよめられていない状態をこのように捉えることは不思議ではないと考えます。

 

②では議論の中心を見て行きましょう。人は救われたならば、確かに罪に対して死に(6章11節)、罪の支配から救われています(6章14節) が、完全にきよめられているわけではなく、実際の信仰生活はしたいと思うことではなく、自分が憎むこと、したくないことを行うことがある、私のうちに住む罪がそのようにさせるのだというのです。

  自分の内面を率直に見つめながら、何を言おうとしているのでしょうか。次のようなことだと思います。救われた後、律法は良いものであると分かり、内なる 人、新しく生まれ変わった者として神の律法を喜んでいるが、一方、救われた後もまだ罪の性質が残っているため、したいと思う善ができない、かえってしたく ないことをしている、いやもっと言うならば、罪の律法のとりこになっている、それゆえ、救われているといっても内面はそういう状態であるから、私は本当に 惨めな死のからだのような存在であると言うのです。

  包み隠すことなく誠実に言うならば、私はそのような者であるが、しかし、私たちの主イエス・キリストがともにおられ、愛して、満たしてくださるゆえに、私 は真に力が与えられ、希望が与えられるというのです。この個所をこのように理解することに対して、これまでローマ書の始めから話して来たことと矛盾してい るのではないかと思われる方がいるかも知れません。

 ここで言われているような内容が救われた後のことであるなら、喜びや平安がないことになり、何も変わらないのではないかという思いです。

  しかし、この点がキリスト者にとって大切と考えます。救われた後も、我々自身の内側深くにあるものを正直に見るならば、したくないことをしてしまう、した いと思っている善が出来ないというのです。何故なら、主を信じ、救われても我々自身が神の性質をもつようになるのではないからです。私たち自身はあくまで 赦された罪人なのです。自我が粉々に砕かれ、主を待ち望み、みことばに従うような姿になり、そしていつも言いますように御霊の実(ガラテヤ5章22 節~23節)を結ぶようになって行きますと、クリスチャン自身が神の性質を持つようになったと思われますが、そうではないのです。私たちはあくまで土の器 なのです。(第二コリント4章6節~7節)金や銀の器になるのではありません。このことを知っていることは本当に大切です。

  このようにこの個所は、救われた後について言っていると理解することは、22節の「内なる人」という表現からも根拠づけることが出来ます。というのは、パ ウロが「内なる人」と言うのはただ内面のことではなく、主を信じ、新しく生まれ変わった姿について言っているからです。有名な第二コリント4章18節、又 エペソ3章16節(朗読)などから明らかです。

  このところを今見て来たように救われた後のことと理解するからと言って、救いの恵み、喜びを少しも軽減するのではありません。主によって全く新しく造られ たものとなっていること(第二コリント5章17節)、神の目には愛するかけがえのない存在であることは少しも変わりがないのです。主によってこれから大い に成長、成熟していく可能性が与えられているからです。

 

◆(終わりに)大いに慰められる個所

牧 師を30年以上続けていると言うと、信仰生活に関して何の葛藤や問題を感じていないと思われるかも知れませんが、そうではありません。いろいろ気にする性 質的なこともあるでしょうが、それだけでなく、一人の信仰者として自分の弱さや醜さを見せられ、自分でいやになることがあります。そしてそう言った思いが 続く時には霊的スランプに陥ります。

  しかし、この個所は、そんな私を大いに慰め、力づけてくれるのです。実は、私自身も長い間、このところは救われる以前のことであると思っていました。ここ で言われているからだの中に罪の律法があるとか、自分が死のからだであると言うようなことは主を知らない頃だと思っていたのです。救われた後は、御霊の導 きを受け、自然に主の御心にかなうような生き方になる、できると考えていたのです。そのため、孤独や不安、恐れを感じたり、またしたい善が出来ず、したく ない悪を行っている自分を見ると落ち込んでいたのです。そして益々悪循環を繰り返していたのです。しかし、パウロが自分の内面を呻きだすように、絞り出す ように告白しているこの個所は、人が主の救いを受けた後のことなのです。しかも、救われて間もない、まだ成長していない段階ではなく、霊的に完全に砕か れ、ただ主を仰いで生きて行こうと思っている状態のことです。主は私たちが救われても弱く、足りない存在であることを受け入れてくださっているのです。

 

  以前にも話したように、聖化と栄化を勘違いしてはなりません。義とされ、聖化の段階に入ることはすばらしい恵みであり、深い喜びです。しかし、完全にきよ められたのではありません。立場も生き方の中心も力も変えられていますが、(ローマ5章1節~3節)なお、弱さ、足りなさはあるのです。そのため、霊的葛 藤が続くのです。ですから、御霊が与えられているのです。

  救われた後がこのようだからと言って、失望する必要はありません。このところの真の意味を知る時、むしろ、励まされるのです。そして、共におられる御霊に より頼む思いと姿勢が深まるのです。失望ではなく、希望が示されているのです。私たちに必要なのは、みことばに親しみ、みからだである教会の交わりを大切 にすることです。そこに信仰者の日々の力の源があるのです。